1938年のTissotに宿る、アナログ計測のロマン

投稿者: | 2025年12月27日

「レトロなクロノグラフ」という言葉を分解してみよう。「レトロ」は雰囲気を、「クロノ」は機能を、「グラフ」は機械式時計の味わいを司る。
そして、Tissot(ティソット)の「Heritage(ヘリテイジ)・テレメーター 1938」(型番:T142.462.16.032.00)は、まさにこの三要素を見事に具現化した一振りである。この時計には、単なる「懐古趣味」ではなく、歴史という重みが確かに息づいている。
視覚的インパクト:過剰なまでに詰め込まれた「精密機器感」
初めてこの時計を目にする者を戸惑わせるのは、その文字盤の複雑さだ。一見すると、幾重もの刻み目が乱雑に並んでいるように見えるかもしれない。
しかし、これは単なる装飾ではない。1930年代のヴィンテージクロノグラフに見られる「測距計(Telemeter)」と「測速計(Tachymeter)」という、実用至上主義の名残である。
時計業界では、この複雑さを「情報量の多さ」と称し、古き良き時代の精密機器を彷彿とさせる「ツールウォッチ」の本質だと評価している。
歴史の一幕:スキー競技と公式計時の始まり
Tissotは1853年の創業以来、スイス時計業界の老舗としての地位を築いてきた。1930年代、同社はスポーツタイマーとしての道を歩み始める。
そして1938年。スイス・ヴィラール=シュル=オロン(Villars-sur-Ollon)で開催されたスキー大会で、Tissotは正式に公式計時メーカーとしての役割を果たした。この出来事は、同社のスポーツ計時史における重要な出発点となった。
当時、公式計時スタッフが手にしていたのが、この「測距計付きクロノグラフ」の原型だった。「テレメーター(Telemeter)」とは、砲撃や雷雨など、光(閃光)を見てから音が聞こえるまでの時間差を計測し、発生源までの距離を算出する機能だ。
現代ではスマートフォンですぐに分かる距離も、当時は光速と音速の差を手計算する必要があった。この機能は、軍事や土木工事の現場ではまさに「物理ツール」として重宝されたのである。
デザインの復刻:現代に蘇る1938年の美学
Tissotの「ヘリテイジ(Heritage)」シリーズは、ブランドのアーカイブの中から代表的なモデルを掘り起こし、現代の装着習慣に合わせてサイズや素材、機芯をアップグレードしながら、デザインの本質を忠実に再現する復刻プロジェクトだ。
今回の「テレメーター 1938」は、まさにその集大成ともいえる。
デザインのこだわり:1938年の原作を忠実に再現した「電信フォント」のロゴ、アラビア数字時標、そして複雑に絡み合う刻度圏。
現代的なアップデート:原作は37mmだったが、現代人の手首にフィットするよう42mmに拡大。また、当時のプラスチック風防ではなく、耐傷性に優れたサファイアクリスタルを採用している。
視覚的要素:白盤と青針のクラシックコンビネーション
今回ピックアップした型番(T142.462.16.032.00)は、シルバーダイヤル&ブルースチール針の組み合わせ。これは、古き良き時代のTissotや他のスイス老舗ブランドでよく見られる、典型的な復刻調色である。
文字盤:金属光沢を帯びた白いダイアルをベースに、黒の太字アラビア数字時標が際立つ。中央部には「渦巻き状の測速計(Tachymeter)」、外周には「測距計(Telemeter)」が配置され、赤・青・黒の文字色がシルバーベースと強いコントラストを成している。
レイアウト:3時と9時に配置されたサブダイヤル(小窓)は、クラシックな「水平双眼」レイアウトを採用。この左右対称の安定感は、レトロウォッチファンの心を確実に掴む。
ケース仕上げ:直径42mm、厚さ約13.85mmの316Lステンレススチールケースは、サイドはヘアライン仕上げ、トップ面とベゼルはポリッシュ仕上げと、メリハリの利いたツートン仕上げが施されている。
メカニズム:進化を遂げた「Valjoux」の鼓動
裏蓋はブルーサファイアクリスタルを採用し、機械式時計ならではの鼓動を公開している。
Valjoux A05.231 オートマチックムーブメント
この時計の心臓部であるA05.231は、定評あるValjoux 7750をベースに、Tissotのために大幅に改良を加えられた機芯だ。
スペック:28,800振動(4Hz)、パワーリザーブは約68時間(従来の7750系より大幅にアップ)。
耐環境性能:Nivachron™チタン合金遊丝とNivachoc避震装置を搭載。これは、磁気や衝撃に対して高い耐性を持つことを意味し、単なる復刻品ではなく、現代の実用時計としての資質を備えている証左である。
装飾:自動車のローターにはTissotのロゴが刻印され、ブリッジにはペールン紋(真珠肌)が施されている。
エピローグ
Tissot Heritage Telemeter 1938を一言で表すなら、「歴史を語るだけの、ぬるい復刻品ではない」ということだろう。
1938年の雪上で公式計時を務めた歴史あるデザイン、実際にはほとんど使わないが「物理法則を文字盤に刻んだ」という知的な遊び心、そして現代の機械式時計として十分な性能を備えたValjoux機芯。
約1万6,700円(当時の為替レート換算)という価格帯で、ここまで奥深い「機械式クロノグラフ」は、他に類を見ない。メカニズムにロマンを感じる、かつ、老舗の計器美学を愛する者にとって、この一振りはまさに最良の選択肢となるはずだ。